どうも、HAKUMAです。
ここでは今でこそ月に数百万という金額を稼ぐことが当たり前になった僕が、そこに至るまでにこれまでどんな人生を歩んできたのかを物語形式で書いていこうというページです。
人前では口が裂けても言えない、そんな恥ずかしいことでもガンガン話していこうと思うのでぜひ最後まで読んでくれると嬉しいです。
それでは、「HAKUMA物語」始まります。
***
僕は福岡県に生まれました。
高校まで行ってもなお、僕が知っている世界の大半は福岡の自然豊かな田舎の風景だけ。
そんな僕にとって、東京は憧れの街でした。
「とにかく都会に出たい!」
「高校を卒業したら絶対俺は福岡から出るぞ!」
そんな想いを僕は物心ついたときからずーっと抱えていました。
で、そんな思惑通り、高校卒業後は就職のために上京。
運良く、誰もが名前を知っている有名企業にも内定が決まります。
「いよいよ俺も東京デビューかー・・・」
上京したら都会の真ん中で働こう。
東京の高層ビルの間を歩いて毎日会社に通うんだ。
そんな希望を旨に僕は東京へとやって来ました。
しかし、当時まだ18歳だった僕に突きつけられたのは・・・
当初、思い描いていたイメージとはかなりかけ離れていました。
当時の僕の仕事はマンションを個人に販売するいわゆる建築請負営業と呼ばれる仕事。
単価は1億、2億という金額しかもそれを個人相手に売る仕事。
当然、中途半端な気持ちでは契約はおろかアポイント1つ取れません。
「とにかく都会に出たい!」
そんな気持ちだけで上京した僕にとって待っていたのは想像を超える地獄の日々。
営業で仕事を取っていただくという現実の厳しさでした。
完全に体育会系の会社、バリバリの営業会社で働いた経験があればその様子をイメージすることができるかもしれません。
・・・しかし、
そういった経験の無い方、健全な会社でしか働いたことがない人にとっては、おそらく目を疑うような光景・・・
思わず目を覆いたくなるような光景が毎日繰り返されることとなりました。
会社を出社するとまず一番最初にその日のノルマと、その日の行動計画を大声で発表することから僕たちの1日はスタートします。
ノルマの発表が終わると今度は外回りの訪問営業を何件も繰り返す。
会社に戻っても1日100件~200件の電話営業をひたすら繰り返す。
「だからいらねーっつってんだろ!!」
「二度とかけてくるんじゃねーぞ!!」
相手はほとんど話を聞かず、こちらが名前を言うだけでガチャ切りされてしまいます。
「これ、何件かければアポになるんだ?」
当初はマジで契約のけの字も見えない日々が続きました。
加えて
11時、13時、15時、17時、19時、21時と2時間置きに、自分の携帯電話に上司からの成果確認の電話がかかってくる
「この2時間で何をやったか進捗状況をすべて報告しろ!」
そうやって全ての営業マンを怒鳴り散らし文字通り監視することそれが僕がいた会社における課長という生き物の役目でした。
ここまでの話だけでも健全な会社で働く多くの人は耳を疑うかもしれません。
しかし、これだけならまだましです。
僕の勤めていた会社では夜の9時以降も家に帰ることはできませんでした。
「今日は何やってたんだ」
夜9時頃からは今度は別の上司である支店長の説教が始まります。
たいてい夜9時頃から始まってきっかり3時間毎日深夜12時まで説教は続く。
その間支店長は文字通り革靴で机をガンガン蹴り飛ばしながら営業マンに罵声をあびせ続けます。
「HAKUMA明日はどうすんだよ!」
深夜のオフィスに響き渡る支店長のその支店長の言葉に、当時なかなか仕事で成果が上がらなかった僕は震える手にどうにか抑えながら
「現状は見込みがありません・・・」
と、うつむきながら答えることしかできませんでした。
そんなのがほぼ常習と化していたある日、その日の説教もきっかり3時間が経過しまもなく日付が変わろうとしている深夜24時。
その日もノルマを達成できなかった僕に支店長が放った一言、それは・・・
「HAKUMA、じゃあ今からどうすんだよ」
「は?」
今からと言ってももう時計の針は深夜24時をさしています。
そんな時間からできる営業活動なんて常識的に考えれば存在しません。
しかし、そんな支店長はそんな常識などとっくに忘れてしまった生き物なのです(ある意味すげー人だ)。
まだ10代で右も左もわからない新入社員だった僕にとってそんな時間からできることなど1つしか思いつきませんでした。
「今からチラシを作ってポスティングしてきます・・・」
「そうか、そんな方法があったか」
誘導尋問のように半ば強制的にそう言わされ真夜中の24時から自分でチラシを作り始め、そうやって作った自作のチラシ片手に
今度は闇につつまれた深夜の街を一人ポスティングして回る。
自主的な姿勢で行う行為という名のもとに・・・
サービス残業でのポスティング活動を半強制的に継続させられる日々が僕のルーティーンとなりました。
うだるような蒸し暑さが残る真夏の夜もチラシが持つ手がかじかむほどに寒い真冬の夜もひたすらポスティングをする日々が続きます。
真夜中に1人黙々とポスティングをしている僕を見て
「不審者」
だと勘違いする周辺住民の方もたくさんいたと思います。
時にはその様子を通報され警察に呼び止められることもありました。
そうして、なんとかポスティングを終えて家に帰ると時計の針は夜中の2時を指している・・・
しかし、家に返ってからも僕の心が休まることはありませんでした・・・。
「HAKUMA、明日の勝負客を教えろ!」
時間の概念を全く忘れてしまった生き物のように深夜2時という時間帯であっても携帯のディスプレイには課長の番号が映り着信音が鳴り続けました。
深夜2時の電話の向こう側から聞こえてくる課長のそんな言葉に僕は何も言葉にすることができませんでした・・・
営業日はこうしたルーティーンが毎日繰り返されました。
また、たまにある休みの日も・・・
「HAKUMA、見込み客出てないんだから休みの日に明日に向けて自主的な行動をしろよ」
そうやって課長からプレッシャーをかけられる。
それは、お前に休みなんかないんだから寝ぼけてないで出社しろそんな意味が込められていました。
本来であれば労働基準法に抵触しないよう監督する役目である支店長も
「自主的に出勤するのであればまったく構わない」
そんな曖昧な言い回しで無言のプレッシャーをかけてくる上司の目を気にして僕には休みを取るという選択肢すらありませんでした。
あくまで自主的な出社扱いとして全く休みがない日々が続く・・・。
気づけば休みなく、90連勤で会社に通い続けているいわば理想的なブラック会社の社畜になっている自分がいました・・・。
高校時代に夢見た
「高層ビルに囲まれた都会の真ん中で仕事ができる男として働きたい」
当初描いていたイメージと現実のそれはあまりにもギャップのあるものでした。
***
・・・しかし、その一方で、休みを一切取らず自分なりにがむしゃらに行動しハードワークする日々を続けた結果、徐々に契約が取れるようになっていきました。
マネジメントする人間としてのモラルにはかける支店長や課長も営業マンとして契約をまとめる力には凄いものがあり新しく見つけてきた見込み客を課長や支店長につなげるそうやって彼らの力を借りることで僕は実力以上にポンポンと契約が取れていきました。
確かに仕事はきついですがやればやったぶんだけ給料は増える。
そんなフルコミに近い給与体系だったこともあり、入社2年目の20歳のときには800万円を突破しました。
正直、自分でも信じられないような結果を手にすることができました。
仕事は過酷でしたが頑張ればその分評価をしてくれる。
僕の心にわずかながらも希望の光が差し込んでいました。
しかし・・・そんな栄光も決して長続きはしませんでした。
他の歩合給型の仕事がそうであるように営業の仕事特に新規開拓をする仕事はいつまでも安定的に契約が取れるとは限りません。
僕自身、ポンポン契約が取れていたのが嘘のようにスランプに陥ってしまい、次第に契約が全く取れなくなっていきました。
「おい、HAKUMA!気ぃ抜いてんじゃねーよ!」
「全然数字上がってねーじゃねーかよ!」
新規開拓の営業で結果が出なくなるにつれて・・・再び支店長からも厳しい言葉が飛ぶようになりました。
しまいには・・・
「最近たるんでる罰として、お前の給料を俺によこせ」by課長
「え?」
課長からはそんな恐喝となんら変わらないことを言われるまでになってしまいました。
確かに、課長や支店長の力量があったことで僕は実力以上に契約が取れ、それによって大きな報酬を得ることができていたのは事実です。
しかし、入社2年目の社員から本気で歩合給を横取りしようとする上司に文字通り開いた口が塞がりませんでした。
そして、実際に90万円を口座に振り込むよう指示され、僕は自分の歩合給を横取りされてしまったのです・・・。
今まで完全なブラック企業の中にあっても、なんとか歯を食いしばってやってきた。
休みも一切とらず、がむしゃらに働き続けた。
しかし、上司から恐喝されたこの一件で、これまでなんとかつなぎ止めていたものが「プツンっ」と切れました。
自分の給料をもらうこと、そしてそれを守ることすらままならないそんな職場に嫌気が差し、ストレスで顔もパンパンに腫れ上がった。
そんな僕のフラストレーションは最高潮に達し、気づけば書類を全てシュレッダーで破棄。
上司の携帯番号はすべて着信拒否。
そうやって半ば強引に退職届を提出している自分がいました。
最後の出勤を終えて、会社を出た瞬間の清々しい気持ちは今でも忘れられません。
「もう明日から会社に行かなくていいんだ!俺は自由だー!!!」
その事実がただただ嬉しく、心の中でガッツポーズをしたのをよく覚えています。
こうして僕は2年間に及ぶ社畜生活に別れを告げ、晴れて自由の身となったのでした。
ただ、この時の僕は次の就職先も今後の予定も何もかも決まっていない状態でした。
まさかその先に「生命維持」すら危うい厳しい現実が待っていようとは想像もしていあませんでした。